- 白鹿の話 -
A white doe in Devenish Forest


リルダン 著


目次

1. デブニッシュの森の青年
2. 青年の夢
3. 青年の命を救う
4. 祭りの後
5. 平行線
6. 決心
7. 白鹿の話

1. デブニッシュの森の青年

昔々、デブニッシュの森の奥深くに白い雌鹿が棲んでいました。
この鹿にとって森の中を駆け回りながらエリンの澄んだ空気を吸い、また美しい景色を眺めることが日々の暮らしの中で一番の楽しみでした。
彼女の両親は彼女を見守りながらいつもこう言っていました。
「お前が自然を愛しているのだということはよくわかっているよ。でも森の外を出歩いてはいけないよ。そこは私たちを捕らえようとする人間の領域だからね。いくら自然が私たちを守ってくれるといっても、人間のそばに近づいたらきっとひどい目に遭うからね。」

デブニッシュの森が春の気配で包まれはじめたある日のこと、白鹿は蝶の群れを追いかけているうちについうっかり森の外に出てしまいました。
森を離れてはいけないと両親からいつも言われていたので、白鹿はその言葉を思い出し、すぐにもと来た道を引き返そうとしました。
しかしそのときです。森のすぐ横の空き地で一人の青年が切り株でできたかかしを相手に剣の練習をしているのが目に入ったのです。

波打つようにうねる長い髪、逞しく意志の強そうな額、そして湖水のきらめきのように深く澄んだ青い瞳。。。
白鹿はその青年に一目ぼれしてしまいました。
その日から、白鹿は青年のそばまでこっそり近づいて行ってはその青年が剣の練習をする姿を木の陰からそっと見守るようになり、それが彼女の密かな楽しみとなりました。

時が流れ、白鹿はその青年の素性が少しずつわかってきました。
その青年が町の騎士志望者だということ。
少し前に父と母を亡くして一人さびしく暮らしていること。町のベルテイン祭で行われる武道大会で優勝すれば騎士として認められるということ。そして彼はそのためにこうして人目につかない森の中で剣の練習を続けているのだということも。。。

鹿はその青年と話をしてみたいと思いました。
もっと近くで彼の顔を見て、彼の声を聞いて、そして彼の輝く瞳で見つめられたいと思ったのです。
時が経つにつれ、白鹿は森のいちばん端、人間のいる場所のぎりぎり手前で過ごす時間が長くなってきました。



そうしてある日、白鹿は前に両親から教えてもらった方法で、人間の娘の姿となって青年のそばに近づいていきました。
「可愛い娘さん。道に迷われたのですか?」
人間の言葉を発することはできませんでしたが、白鹿は青年が自分に声をかけてきてくれた事がどれだけうれしかったことでしょう。青年は上品な美しさを持つその娘にやはり好感を持ちました。
人間の娘の姿となった白鹿も、頬を赤く染めたまま騎士の顔を見つめ、ただ微笑むばかりでした。
その日二人は日が暮れたころに別れました。

2. 青年の夢

その次の日、青年に会うため昨日の姿に身を変えた白鹿の娘は、胸をときめかせながら青年の前に出ようとしました。
しかし青年と立派な服を着た赤いマントの若者が何か話しているのを見て木の陰に隠れました。

「こうやって練習して今度の剣術試合で騎士と認められれば、彼女の愛も勝ち取れるとでも思っているのかい?」
「。。。」
「馬鹿らしい。君が騎士になったって何も変わらないよ」
やがて青年はため息をつきながらこう言いました。
「あなたが今月末に領主の娘に結婚を申し込むという話は聞きました」
「私がはっきりさせておきたいのは、君のこんな行動が君自身のためならいざ知らず、彼女のためだなんて錯覚したまま試合に勝ってもらっちゃ困るっていうことさ」
「あなたは貴族で私はただの貧しい騎士志望者にすぎません。彼女のことであなたと争いたいわけではありません」
「私の言っていることがちゃんと分かってもらえたのなら嬉しいんだがね」

若い貴族は馬に乗り来た道を戻って行きました。しばらくその後姿を見ていた青年はへなへなと崩れるようにしてその場に座り込みました。彼が深くため息をつくのをみて白鹿はつらさのあまり喉が締め付けられる思いがしました。

そうだったのね。あの人には好きな女性がいたのね。だからこの森の中であんなに練習してきたのね。。。
彼女はひどくがっかりして気を落としました。
あの人の心のなかに私が入り込む余地などないってことなの。。。

思わず流れ出た涙で目を潤ませながら、白鹿の娘はくるりと身を翻しました。そのとき木の枝が揺れ、その音を聞きつけた青年が彼女を呼び戻そうと懸命に叫びましたが、彼女は逃げるように森の中へと駆けて行きました。
彼女はひどく落ち込みました。
けれども彼女は青年をひそかに見守ることだけはやめませんでした。いつしか自分の心の中で大きな存在になっていたあの青年。
彼女は悲しい目でその青年を見つめては、騎士になりたいという彼の望みが叶うようにと毎日祈りました。

3. 青年の命を救う

その日も白鹿は人間の姿となって森の木の陰に隠れ、刀を振り回す青年の姿を眺めていました。
今日の青年はなぜかいつもよりもずっとつらそうに見えました。今ではもう青年の一つ一つのしぐさから彼の気持ちまで読み取れるようになった白鹿の娘。青年は明らかに苦しんでいるのに、自分は前に出て彼を慰めてあげることもできない。それは彼女にとって本当に悲しいことでした。彼女がため息をつきながら自分の来た道をたどって森の中へ戻っていこうとしたとき、短い悲鳴が聞こえました。
後ろを振り向いた彼女の目に映ったのは、一匹の毒蛇が青年の足に噛み付いているところ。
毒蛇は青年が驚いて腕を振り回したためその腕に当たりどこかへ逃げていったものの、青年はすぐに倒れてしまいました。
白鹿の娘は人間の姿になると彼のもとに急いで駆けより、彼の足を縛って傷口を切開したあと毒を吸い出しました。
倒れ込んだ彼の目には白鹿の娘の姿が映っていました。しかし彼はすぐに意識を失ってしまいました。

どれくらいの時間がたったでしょう。
彼が意識を取り戻したときにはその横で白鹿の娘が薬草を手にしたままうつぶせになって眠っていました。
「この娘が僕を助けてくれたのだな。」
まだ蛇の毒がわずかに残っているのか、青年は再び深い眠りの底に落ちてしまいました。
それからというもの、白鹿の娘はこそこそ身を隠したりはしなくなりました。
彼が剣の練習をするのを彼のすぐそばで一日中見守ってはまた森に戻る。それが彼女の一日の日課となりました。

4. 祭りの後

ある日、森から出て行こうとする白鹿を彼女の両親が呼び止めてこういいました。
「お前ももう婚約をする歳になったね。お前と婚約したいという男たちがいるのだが、あってみてはどうかな」
しかし彼女の心の中にいるのはもはやあの青年だけ。
彼女は首を振って、もう少し考える時間がほしいといいました。自分にはまだ結婚は早すぎるのではないかという言葉も付け加えて。
春の終わりに行われる町の祭りの日が近づくにつれ、白鹿の娘はだんだん気持ちが落ち着かなくなってきました。
「もし試合で優勝したら、あの青年は騎士になって領主の娘に告白するんだわ」
「私なんて忘れてしまうのね」
「でも彼の望みが叶うように祈らずにはいられない。。。」
「私はどうしたらいいのかしら」
「私もあの人みたいに人間になりたい。」

あっという間にイメンマハのベルテイン祭の日がやってきました。
娘は町までいってあの青年を応援したくて居ても立ってもいられませんでしたが、結局そうすることはできませんでした。
その日は雨がずっと降り続いたため、白鹿の娘は丘にのぼって町の花火を眺めながら青年のためにただひたすら祈りました。
雨は祭が終わるまで降りやまず、その後もずっと降り続きました。次の日も、そのまた次の日も。。。



祭が終わって数日ものあいだ、その青年は森に姿を見せませんでした。その青年がいつも剣の練習をしていた空き地で、白鹿の娘はむなしく雨に打たれながら彼を待っていました。

青年がふたたび姿を現したのは雨がやんでしばらく経ってからのことでした。青年の服はところどころ破れており、生き生きとした顔は疲れて憂鬱そうな表情に変わっていました。
「僕、大会で負けてしまった」
白鹿の娘を見て青年が口を開きました。
「馬鹿みたいだろ?」
白鹿の娘は首を振りながらも青年の苦しみを思うと胸が痛くなりました。その一方で彼と別れなくてもいいという安堵感も広がって、彼女は彼の胸に飛び込みました。
白鹿の娘は彼の胸に抱かれ、二人は長い間涙を流しながら互いが互いの気持ちを受け止めました。

5. 平行線

それからまた数日後、青年は森の空き地で待っていた白鹿の娘を幸せそうな表情で急に抱きしめました。
「僕、猟師になることにしたよ」
白鹿の娘はたいそう驚きました。
「君と出会ったときから感じていたんだ。僕はこの森が好きなんだってこと。この森と共に生きていきたい」
白鹿の娘は心臓が止まるかと思うくらい驚きました。この人が猟師になるなんて!
首をふりながら残念そうな顔をした彼女を見て、彼は言葉を続けました。
「いや、いいんだ。騎士になる夢はもう棄てたんだ。もうこの森の猟師になるだけで充分幸せなんだ。そのうえ君に会うこともできるし。。。」
彼女は信じられないといった表情をして後ずさりし、その場を離れました。

彼は猟師として一生懸命働きました。不慣れな仕事でしたが、時が経つにつれ猟師としての腕も上がってきました。
獲物をとらえて手を血で染めながら皮を剥ぎ、肉を捌き、 罠を仕掛けることが彼の日課になりました。
今はもう巷でも有名な猟師となった青年は、こうしてお金を稼ぎ、町の若い娘たちが欲しがりそうなものを工面しては白鹿の娘に贈りました。
しかし、娘に贈り物をしようとすると娘はいつもきまって涙を流すのでした。 娘は彼から贈られたものを身につけるごとに、彼に殺された動物たちの悲鳴が聞こえてくるような気がしたからです。
そんな娘の姿をみて青年はとても傷つきました。

そうしてある日、町に動物の皮を売りに出かけた青年は、領主の娘が自分を捜しているという話を耳にしました。 何とかして気持ちを落ち着かせようとしましたが、どうしても気になってしかたありませんでした。
震える心を落ち着かせながら領主の邸宅を訪ねてみると、ますます美しくなった領主の娘が彼をまっすぐ見つめて口を開きました。
「デブニッシュの森に白鹿が棲んでいるという話はご存知ですか?」
青年が答えました。
「ただの噂ですよ。まだ一度も見たことはないですからね。」
「腕のいい猟師のあなたなら、すぐに探し出せると思いますよ」
「ということは?。。。」
「白鹿の毛皮が欲しいのです。お礼に何でも差し上げますわ。やってくださるでしょう?」
「何でもですか?」
「はい。あなたの欲しいものなら何でも」
どうにか気持ちを整理しようとしたものの、以前から恋い慕っていた領主の娘が自分をみつめてこんなふうに懇願するものですから青年の心は揺れに揺れました。
「お時間をくださいませんか。白鹿は聖なる生きものです。出会うことすら難しいうえ、うかつに殺したりすればケルヌノス神の呪いを受けてしまいます。」
「よいお返事を期待しています。」
その日、森のそばにある家に戻った青年はずっと眠れませんでした。

「森の守り神がお前をお見そめになったようだ。お前にお会いになりたいそうだ」
白鹿の娘の両親は、彼女に結婚を勧めました。しかし娘は何も言えませんでした。もう自分の心の奥底にはあの青年がすみついていたからです。ためらう彼女の姿を見ながら母親が再び口を開きました。
「お前がこのごろ何をしてすごしているか私はわかっているの。人間の若者に入れ込んで一日中その若者と一緒にいるそうじゃないの。」
びっくりする娘。父親の慈しみ深くも厳しい声がそのあとに続きました。
「お前が人間の姿に変身できるといってもそれはただ見かけが変わるだけだよ。私たちと人間とは根本から違うのだよ。私たちはケルヌノス神の恩寵を受けて森の運命をせおうデブニッシュの森の聖獣なのだから」
「それにその若者は森の動物たちをむやみやたらに殺してまわってるそうだね」
「お前が人間の姿になってそんな猟師を好きになるなんてことは道理にそむくことだよ。道理にそむいたりしたら、その時は甘く幸せに感じられたとしても、結局は不幸という形でまた舞い戻ってくるのだよ。」
白鹿の娘は涙を流して泣きはじめました。
「二人の気持ちが深ければ深いほど、あとで深く傷つくことになるのだよ。今すぐ彼のことを忘れるのは無理だとしても、このことを心の中にきちんと留めておかないといけないよ」
最後に父親が重々しくこう告げました。
「彼に不幸になって欲しくなければ、彼を忘れなければいけないよ。肝に銘じておきなさい」

6. 決心

一方、数日間悩んだ青年は何かを決意したような表情で森のそばの小屋を出ると弓矢を片手に森へ入ってゆきました。
空き地では白鹿の娘が彼を待っていました。優しく抱かれる白鹿の娘をぽんと軽くたたきながら青年が口を開きました。
「何日か前に領主の娘に会ったよ」

白鹿の娘がびくっと身じろぎました。
「白鹿を捕まえてくれと頼まれたんだ」
そう。そういうことだったのね。彼女は全てを理解するとともに全てを諦めました。
私は結局この男に殺される運命だったのね。結ばれるはずもない間柄。。でもむしろ私の命ひとつで彼が幸せをつかめるのなら。。。
そのとき彼がまた口を開きました。
「でも断ることにしたよ」
彼女は自分の耳を疑いました。
「猟師は森があってこその存在じゃないか。今まで動物を殺しながら僕自身何だか納得いかないところがあったんだ」
白鹿の娘の胸は高鳴りました。
「今はもうわかるよ。君は僕が森で狩をするのが嫌なんだってことが。僕、猟師はもうやめるよ」
そして彼は今まで狩りに使っていた弓の弦をゆるめました。
「君が誰でどこから来たのか知らないけど、今日は絶対この話をしたかったんだ」
青年の青い目と白鹿の娘の目が合いました。
「君は僕の大事な人だ。これから僕と一緒にいてくれ。ずっとずっと。」

白鹿の娘はやがて胸が張り裂けてしまいそうなほどの喜びを覚えました。しかしそれも束の間だけ。白鹿の娘は先ほどの両親の話が頭から離れませんでした。彼は人間で私は聖獣とはいえ一頭の動物。決して結ばれはしない仲だということを。。。
あんまりだわあんまりよ。結局、悲しそうな目をして首を振ってしまう白鹿の娘。
「そう。そうか。結局こうなるのか。。。」
彼女を静かに見つめ、青年は寂しい微笑みを浮かべながら後ろを向きました。背を向けはしましたが、彼女には彼のため息がはっきり聞こえ、彼女の心もまた粉々に砕けてゆくようでした。
白鹿の娘は涙にまぎれ、かすんでゆく彼の後姿を見つめていました。


ちょうどそこを領主の娘と婚約した貴族の若者が通りかかり、白鹿の娘を目にしました。
彼の目に映ったのは一頭の白鹿。
「彼女が俺に話していたあの鹿だ。いい贈り物になるぞ」
彼は弓に矢をつがえ、白鹿に向けて放ちました。

まさにそのとき、後ろを振り返って最後に白鹿の娘の姿を見ようとした青年は、貴族の若者が弓を構えているのを見て身を投げ出すようにして彼女をかばいました。
そして鈍い音がしました。白鹿の娘の悲鳴が森全体に響き渡りました。

7. 白鹿の話

突然の事故の知らせに町はざわめき立ちました。次第に名声の高まっていた猟師が森で死んだのです。彼を診た医者は森に棲む猛獣のしわざだと言い、それ以降デブニッシュの森を訪れる人の数は減りました。 もちろん奇妙な噂も流れました。猟師を死に追いやった傷は実は猛獣によるものではなくて矢が刺さってできたものだ、という噂です。しかしそれもほんのしばらくの間だけ。すぐ次の月には領主の娘が結婚式を挙げ、彼女の夫がその地の領主となったため、新しい話題にまぎれて猟師の死についての噂などどこかにいってしまいました。
新たな領主の誕生について人々の関心がうすれてきたころ、森を訪れたわずか数人の口を通じてデブニッシュの森の白鹿についての話が広まりはじめました。
デブニッシュの森には白い鹿が棲んでいるが、そのそばにはいつも青い目の雄鹿が付き添っているそうな。。